金武町屋嘉について調べてみました。
ウフカー(大井戸)は、部落の中央に位置する石積みの掘り下げ井戸で、
屋嘉の村カーとして構築されたと伝承されています。
ウフカーは往時より人々の生活に欠くことのできない生命の水であり、
カミカー(神井戸)として部落の祭司と深い関わりを持っています。
部落の長い歴史とともに、民俗信仰行事が今日まで継承されているカミカー(神井戸)です。
伊芸のガジュマル
伊芸旧区事務所跡の「がじまる」の樹は金武町地内の熟成木の中でも樹齢約300年と
云われる稀な名木で、その毅然と立つがじまるの樹は部落の多くの出来事を見守り、
村芝居や綱引き等部落の行事を興し、農作業の労を癒し人々の語らいの場を提供しています。
また、年輪を重ねる毎に部落の歴史を刻み地域の風土を語り、部落の風景を創り出します。
この名木の「がじまる」の樹を町文化財として保護・育成する事により、
町民の郷土に対する認識と理解を深め、文化の高揚に資することを目的としています。
ヨリブサノ御嶽
この御嶽は、「琉球国由来記(1713年)」に金武間切屋嘉村ヨリブサノ御嶽(神名アコウヅカサノ御イベ)、
祭祀は伊芸ノロに所掌と記されています。御嶽は部落の発生と深く関わりを持ち、往時はこの御嶽の近くに御嶽を守護神とする上の島(村)が
存在していたと伝承されています。
御嶽の森にはコンクリート作りの神社があり、火の神(ヒヌカン)が安置され、
現在も屋嘉区での神事の祈りには、祭司によって部落の繁栄と豊年の祈願が
行われている由緒のある御嶽です。
屋嘉収容所
第二次世界対戦後の1945年、焼け野原となった金武村屋嘉集落の跡に、
米軍は投降した日本軍将兵およそ7千人を収容する「屋嘉収容所」を設けました。
米軍の厳しい監視下の中でも、沖縄出身の捕虜たちは、空き缶やあり合わせの木材を使いパラシュートの紐を弦とした
カンカラ三線を作り演奏するようになります。戦争の悲哀を歌った「屋嘉節」は屋嘉収容所で生まれ広まりました。
収容所は1946年2月に閉鎖となり、その後米軍保養所となりましたが、1979年8月31日に全面返還されました。
屋嘉捕虜収容所の碑の裏には屋嘉節の歌詞が刻まれています。
屋嘉節
一、「なちかしや沖縄 戦場になやい 世間御万人ぬ袖ゆ濡らち」なちかしや うちなー いくさば になやい しきん うまんちゅぬ すでぃゆぬらち
二、涙飲でぃ我んや恩納山登てぃ 御万人とぅ共に戦凌じなみだぬでぃ わんや うんなだき ぬぶてぃ うまんちゅとぅとぅむにいくさしぬじ
三、あわり屋嘉村の闇の夜の鴉 親うらん我身ぬ 泣かんうちゅみあわりやかむらぬ やみぬゆーぬがらし うや うぅらん わみぬ なかん うぅちゅみ
四、無蔵や石川村 茅葺きの長屋 我んや屋嘉村の砂地枕んぞや いしちゃーむら かやぶちぬながやー わんややかむらぬ しなじまくら
五、心勇みゆる四本入り煙草 さみしさや月に流ちいちゅさくくるいさみゆる しふんいりたばく さみしさや ちち に ながちいちゅさ
戦争は何も生まない。
僕たちは戦争を生き抜いて
犠牲になった方、必死に今をつくってくれた方たちに感謝し
次の世代に繋げていきたいですね。
金武町屋嘉について調べてみました。
屋嘉のウフカー(大井戸)
ウフカー(大井戸)は、部落の中央に位置する石積みの掘り下げ井戸で、
屋嘉の村カーとして構築されたと伝承されています。
ウフカーは往時より人々の生活に欠くことのできない生命の水であり、
カミカー(神井戸)として部落の祭司と深い関わりを持っています。
部落の長い歴史とともに、民俗信仰行事が今日まで継承されているカミカー(神井戸)です。
伊芸のガジュマル
伊芸旧区事務所跡の「がじまる」の樹は金武町地内の熟成木の中でも樹齢約300年と
云われる稀な名木で、その毅然と立つがじまるの樹は部落の多くの出来事を見守り、
村芝居や綱引き等部落の行事を興し、農作業の労を癒し人々の語らいの場を提供しています。
また、年輪を重ねる毎に部落の歴史を刻み地域の風土を語り、部落の風景を創り出します。
この名木の「がじまる」の樹を町文化財として保護・育成する事により、
町民の郷土に対する認識と理解を深め、文化の高揚に資することを目的としています。
ヨリブサノ御嶽
この御嶽は、「琉球国由来記(1713年)」に金武間切屋嘉村ヨリブサノ御嶽(神名アコウヅカサノ御イベ)、
祭祀は伊芸ノロに所掌と記されています。
御嶽は部落の発生と深く関わりを持ち、往時はこの御嶽の近くに御嶽を守護神とする上の島(村)が
存在していたと伝承されています。
御嶽の森にはコンクリート作りの神社があり、火の神(ヒヌカン)が安置され、
現在も屋嘉区での神事の祈りには、祭司によって部落の繁栄と豊年の祈願が
行われている由緒のある御嶽です。
屋嘉収容所
第二次世界対戦後の1945年、焼け野原となった金武村屋嘉集落の跡に、
米軍は投降した日本軍将兵およそ7千人を収容する「屋嘉収容所」を設けました。
米軍の厳しい監視下の中でも、沖縄出身の捕虜たちは、空き缶やあり合わせの木材を使いパラシュートの紐を弦とした
カンカラ三線を作り演奏するようになります。戦争の悲哀を歌った「屋嘉節」は屋嘉収容所で生まれ広まりました。
収容所は1946年2月に閉鎖となり、その後米軍保養所となりましたが、1979年8月31日に全面返還されました。
屋嘉捕虜収容所の碑の裏には屋嘉節の歌詞が刻まれています。
屋嘉節
一、「なちかしや沖縄 戦場になやい 世間御万人ぬ袖ゆ濡らち」
なちかしや うちなー いくさば になやい しきん うまんちゅぬ すでぃゆぬらち
二、涙飲でぃ我んや恩納山登てぃ 御万人とぅ共に戦凌じ
なみだぬでぃ わんや うんなだき ぬぶてぃ うまんちゅとぅとぅむにいくさしぬじ
三、あわり屋嘉村の闇の夜の鴉 親うらん我身ぬ 泣かんうちゅみ
あわりやかむらぬ やみぬゆーぬがらし うや うぅらん わみぬ なかん うぅちゅみ
四、無蔵や石川村 茅葺きの長屋 我んや屋嘉村の砂地枕
んぞや いしちゃーむら かやぶちぬながやー わんややかむらぬ しなじまくら
五、心勇みゆる四本入り煙草 さみしさや月に流ちいちゅさ
くくるいさみゆる しふんいりたばく さみしさや ちち に ながちいちゅさ
戦争は何も生まない。
僕たちは戦争を生き抜いて
犠牲になった方、必死に今をつくってくれた方たちに感謝し
次の世代に繋げていきたいですね。